تسجيل الدخولラ・ベラ・ヴィータには、初見のお客様がいらっしゃったら、必ず咲希自らが接客を担当するというルールがある。
この日、二組目のお客様は、まさに“初見”の客であった。
「ご予約のお客様、いらっしゃいました!」
厨房に咲希を呼びに来た時下は、そのあと、少し歯切れ悪く言葉を続ける。
「しかし、あの……」
「なに、どうしたの?」
店の入り口までお客様を迎えに出た咲希は、なるほどこれは時下も戸惑うはずだと思った。
ラ・ベラ・ヴィータにドレスコードは存在しない。
それでも、超高級店であるという格式に配慮して、客は皆きちんとした格好をしてくる。
ところが店先に立つ男は、随分とラフな格好をしていた。
上は洗いざらしてゴワゴワになった白Tシャツ、下は擦り切れたダメージジーンズに、足元は安っぽいゴム草履。
髪型ももっさりと前髪をだらしなく垂らして、無精髭も生えている。
時下は咲希にそっと耳打ちした。
「お断りしましょうか」
しかし咲希は迷うことなく返す。
「いいえ、きちんとご案内して」
「しかし、うちの店の格を下げるんじゃ……」
「そうね、確かに格式は下がるかもしれない。でも、お客様を見た目だけで判断するのは、お店の品格を下げる行為だわ」
咲希は自らコック帽を脱ぎ、その客に向かって腰を折った。
「ようこそ、いらっしゃいませ、ラ・ベラ・ヴィータへ」
男はそんな咲希を値踏みするように、頭のてっぺんから爪先まで無遠慮に眺め回した。
「あんたがここのえらい人?」
「シェフを務めさせていただいてます、畠山咲希です」
「ふうん、腰が低くていいじゃん、感心感心」
その傲慢な口ぶりに時下は眉間に皺を寄せる。
だが咲希は、彼の振る舞いに違和感を覚えた。
店をやっているのだから、これまでにも無礼な客に行き当たったことはいくらでもある。
軽薄さなら、身近に宮下という弟子もいて見慣れている。
だけどこの男の振る舞いは、それらとは違って、どこか嘘くさい。
だが咲希はそれを指摘するようなことはしなかった。
彼女の料理に必要なのは客を見極めることであり、暴くことではない。
「どうぞこちらへ」
咲希はこの男を席へと案内する。
彼が履いたゴム草履は、よく磨かれた床を踏むたび、ペタペタと楽しそうに鳴った。
軽薄なのは演技かもしれないが、根は悪くなさそうだ、と咲希は思った。
男は席につくとまず、ビールを注文した。
「とりあえず生中、ジョッキはよく冷えたやつでね」
時下が少し傷ついたような顔をする。
「お客様、当店はフレンチレストランですので……」
「フレンチだってビールぐらいあるでしょ」
「瓶ビールでしたらございますが」
「あー、それでいいや、グラスはひとつね」
「お客様……」
さらに何か言いかけるのを、咲希が鋭く制する。
「時下!」
「はい、すぐにご用意いたします」
咲希は予約帳をめくり、この男の名前が"谷崎隼人"だということを確認した。
備考欄にはなにも書かれていない。
「お客様、アレルギーや嫌いなもの、食べられないものなどはございますか?」
咲希の質問に、谷崎隼人はひらひらと手を振って応える。
「あー、自分で見るから、まず、メニュー頂戴」
「申し訳ございません、当店はメニューのない提供スタイルでして」
「へえ、じゃあ、なにを食べさせてくれるの」
「お客様のお好みに合わせて、私が決めます」
「つまり君さあ、客の好みを完全に把握してるって自信があるの? 傲慢だね」
辛辣な物言いにも、咲希はいささかも揺らぐことなく、強い意志を込めた眼差しでじっと隼人の目を見つめる。
隼人は、そんな彼女の内面を見極めようとするかのように、その瞳を見つめ返す。
深く深く、強く、揺らぐことなく。
突然、隼人がふっと微笑んだ。
眼差しの圧が和らぎ、優しい視線が咲希の首元へと落ちる。
咲希は思わず首元に手を当て、ボタンを確かめてしまった。
大丈夫、スタンドカラーの一番上までボタンはしまっている。
傷跡が見えるはずがない。
それでも隼人の視線は、服越しに傷跡を見透かそうとするかのように、咲希の首元から離れない。
嫌な視線ではない。
むしろ労りと愛情を感じる優しい視線だ。
だが、気恥ずかしい。
咲希は思わず顔を赤らめた。
「あの……」
「ああ、失敬、女性に対して不躾すぎましたね」
今まで猫背気味だった隼人の背筋が、急にピンと伸びる。
椅子の前半分にお尻を置いてだらしなく座っていたのが、椅子の背面に腰をそわせるように座り直し、膝をきちんと揃えて。
気品を感じる美しい姿だ。
ビールとグラスを持って入ってきた時下に向けて、彼は言った。
「ギャルソン君、きみは表情のコントロールを覚えたほうがいい、客に対して不満を持つのは構わないが、それを顔に出してはいけないよ」
柔らかいが威厳ある口調。
叱られたわけでもないのに、時下は思わず背筋を正す。
「は、はい!」
隼人は手酌でビールをグラスに注いだ。
その手つきもどこか優雅だ。
やはり、あの軽薄さは演技だったのだ!
偽りの怠惰を脱ぎ捨てた彼は、姿勢の美しい凛々しい男であった。
「試すような真似をしてすみません」
前髪をかきあげれば、形よく理知を感じさせる額。
目元はくっきりと冴え渡り、意志の強い性格を感じさせる。
物腰は上品で、育ちの良さが滲み出ている。
さっきまで貧乏臭く見えていた白いだけのTシャツが、まるで清潔感の象徴みたいに眩しく見えた。
隼人がグラスに口をつけ、ビールで少し口をしめらせる。
「私の正体が気になりますか?」
咲希の答えは決まっていた。
「いいえ、必要ありません」
「ふっ、"必要"ね」
この答えは、どうやら隼人を満足させたらしい。
「アレルギーはナシ、好き嫌いも特にない、全てをあなたにお任せします」
どこか挑戦的な眼差しをした彼を見て、咲希は「この男は一筋縄では行かなそうだ」と考えた。
だからこそ、料理のしがいがある。
キッチンに戻った咲希は、前菜用に仕込んでおいた鳥もも肉のコンフィを前に暫し思案する。
これは薄切りにして柑橘のソースをかけ、ケッパーをぱらりと散らして提供しようと思っていたものである。
だが、それでは……
「パンチが足りない」
普通のフレンチならば十分な一品だ。
だが、あの男が求めている"味"はそれではない。
「村上、これをローストしてちょうだい、皮目がパリッとする程度にね、宮下はアンディーブ《チコリ》を用意して、大きすぎず小さすぎず、ちょうどいい大きさの葉を丸ごと使うわ」
村上は首をすくめる。
「また、オーナーに怒られても知りませんからね」
「あの人が食べない料理まで、あの人に配慮する必要はないわ」
いいながら咲希は、いくつかの調味料とりんごを手に取る。
宮下はそれをチラリと眺めて、何かを思いついた様子だ。
「なるほど、いいですね、フィンガーボールも用意しましょうか」
「そうね、あくまでもフランス料理の体裁で」
「了解!」
しばらくして、隼人の前に運ばれたのは……
「なるほど、美しい」
ぽってりと厚みのある益子焼の皿に乗せられたのは、薄く繊細なチコリ。
さらにチコリを器に見立てて盛り付けられたのは香ばしさが出る程度に皮目を炙って薄くスライスした鳥のコンフィと、添えとして色とりどりの野菜をバターでじっくり炒めた|ミルポア《刻み野菜》。
その盛り付け自体は、特に目新しいものではない。
咲希は隼人の目の前で仕上げとして濃い茶色のソースを繊細な手つきでさらに垂らし、それを差し出した。
「前菜です」
隼人は節だった男らしい指で躊躇うことなくチコリを摘み上げ、大きく一口を齧る。
「!」
ビールの苦味が残った舌を、チコリの微かな苦味がさらに刺激する。
そこへ香ばしさを纏った鳥の脂が混じり、甘みに変わる。
何より、フランス料理らしからぬパンチが効いたワイルドな、このソースは……
「バーベキューソースか!」
それもりんごの果汁だけを絞ってさらりと仕上げたもの。
ワイルドでありながら口当たりは上品だという味の構成が、実に見事だ。
隼人は口中に残った脂の旨みを洗うようにビールをグビリと飲み干し、そして感嘆の息を吐いた。
「伝統的でありながら革新的、君のような一皿だ」
咲希は微笑みを添えてそれに返す。
「ワイルドでありながら高貴、そんなあなたのイメージでお作りしたのですが」
「素晴らしい、いや、本当に素晴らしいよ、君の料理は一つのアートだ」
「ありがとうございます」
「だが、惜しいかな、この店にいる限り、君の料理はアートの域をでない」
流石の咲希も、怪訝そうに眉根を寄せる。
「アートではいけないと?」
「いけないわけじゃない、だけど、あまりにもったいない」
隼人は残りのチコリを口に放り込み、そして目を細めた。
「美味いな」
そしてビールをもう一口。
「君には“もっと上”があるんじゃないかな、そしてそれは、こんな店に閉じ込められている限り、きっと辿り着けない」
彼はジーンズのポケットから無造作に名刺入れを取り出し、その中の一枚をテーブルに置いた。
名刺には“谷崎隼人”と大きく書いてある。箔押しされた会社名は“谷崎ホールディングス”、肩書きは“取締役”だ。それをチラリと見た咲希は、納得した。「ああ、あなたが“谷崎の坊ちゃん”」谷崎グループの御曹司が破天荒な人物だというのは、業界内では有名な話だ。身分を隠して現場に紛れ込むような“悪戯”を好んでするのだとか。「ウチにきたのも“悪戯”の一つですか」咲希は深い感情もなく軽口のつもりで言ったのだが、隼人はこれに予想以上の狼狽を見せた。「いや、違うんだ、本当に、試すようなことをしたのは申し訳なかったが、決して悪戯ではないんだ、ここ見て」大慌てで隼人が指差したのは、所属として書かれた“新規ブランド開発本部長”の文字。「後継者修行の一環として、この部署を任されてね、そこで、君をスカウトしにきたんだ」咲希の口元が静かに引き結ばれる。その瞳の奥に侮蔑の色が浮かんだ。「つまり当店にお食事に来たのではなく、ビジネスに来たと」ラ・ベラ・ヴィータには知名度があり、高級料理店であるというステータスもある。店の売却を打診するために客を装って来店する投資家は今までにもいた。だが、彼らが欲しがるのはいつだって“ラ・ベラ・ヴィータ”という店そのものであり、咲希自身の価値が求められたことはない。咲希は無意識のうちに、傷を隠した襟元を指でなぞった。「この店は譲りません、お食事をなさらないなら、どうぞお帰りを」隼人は立ち上がり、傷をなぞろうとする咲希の手を握り止めた。「俺が欲しいのは店じゃない、君自身だ、君の才能が欲しいんだよ」「私には、そんな価値はありませんよ」「君は……」隼人の胸が僅かに痛む。彼はバックグラウンドチェックによって咲希の現状をある程度把握している。その情報には、夫と離婚寸前の関係であることも、その夫の無理解に傷つけられていることも書いてあった。だが、実際に傷を気にする姿を見ると……彼女は深く傷ついている。自分が無価値だと思いこむほどに。握った指先がひどく冷たいことが、隼人には耐えられなかった。「誰が価値がないなんて言った?」「誰って……」「傷の一つや二つで、人は無価値になったりしない、特に君は、傷ついてなお魅力的な才能を持っているじゃないか」「料理を作ることしか能のない女ですよ、私は」「十分じゃないか、俺は、その才能
ラ・ベラ・ヴィータには、初見のお客様がいらっしゃったら、必ず咲希自らが接客を担当するというルールがある。この日、二組目のお客様は、まさに“初見”の客であった。「ご予約のお客様、いらっしゃいました!」厨房に咲希を呼びに来た時下は、そのあと、少し歯切れ悪く言葉を続ける。「しかし、あの……」「なに、どうしたの?」店の入り口までお客様を迎えに出た咲希は、なるほどこれは時下も戸惑うはずだと思った。ラ・ベラ・ヴィータにドレスコードは存在しない。それでも、超高級店であるという格式に配慮して、客は皆きちんとした格好をしてくる。ところが店先に立つ男は、随分とラフな格好をしていた。 上は洗いざらしてゴワゴワになった白Tシャツ、下は擦り切れたダメージジーンズに、足元は安っぽいゴム草履。髪型ももっさりと前髪をだらしなく垂らして、無精髭も生えている。時下は咲希にそっと耳打ちした。「お断りしましょうか」しかし咲希は迷うことなく返す。「いいえ、きちんとご案内して」「しかし、うちの店の格を下げるんじゃ……」「そうね、確かに格式は下がるかもしれない。でも、お客様を見た目だけで判断するのは、お店の品格を下げる行為だわ」咲希は自らコック帽を脱ぎ、その客に向かって腰を折った。「ようこそ、いらっしゃいませ、ラ・ベラ・ヴィータへ」男はそんな咲希を値踏みするように、頭のてっぺんから爪先まで無遠慮に眺め回した。「あんたがここのえらい人?」「シェフを務めさせていただいてます、畠山咲希です」「ふうん、腰が低くていいじゃん、感心感心」その傲慢な口ぶりに時下は眉間に皺を寄せる。だが咲希は、彼の振る舞いに違和感を覚えた。店をやっているのだから、これまでにも無礼な客に行き当たったことはいくらでもある。軽薄さなら、身近に宮下という弟子もいて見慣れている。だけどこの男の振る舞いは、それらとは違って、どこか嘘くさい。だが咲希はそれを指摘するようなことはしなかった。彼女の料理に必要なのは客を見極めることであり、暴くことではない。「どうぞこちらへ」咲希はこの男を席へと案内する。彼が履いたゴム草履は、よく磨かれた床を踏むたび、ペタペタと楽しそうに鳴った。軽薄なのは演技かもしれないが、根は悪くなさそうだ、と咲希は思った。男は席につくとまず、ビールを注文した。「とり
畠山海斗は合理主義の男である。彼にとって食事とは生命維持のための栄養補給、そしてビジネスを円滑に進めるためのツール、それ以上でも以下でもなかった。だが、新しく愛人となった向坂淳美は、 新たな“食事”の価値を彼に教えてくれた。「飲食業って、手堅いビジネスだって言われてるのよ、だって食事をしない人はいないんだから常に需要はあるわけでしょ」料亭の個室で、卓上に並べられた料理の写真を撮影しながら、彼女は言った。向坂淳美はフォロワー数三万人を超えるインフルエンサーで、その主な活動は高級料理店や話題の店舗のグルメリポートである。「だけど、需要があるってことは、競合も多いってコト! つまりレッドオーシャンなのよ、お店を成功させるためには他店との差別化とブランディングが必要なの、つまり知名度って武器なのね」海斗は突き出しの小鉢に箸をつけながら、「なるほど」と頷いた。淳美の知識は底が浅い。しかし若さ故の直感的で大胆な発想は、海斗に新鮮なインスピレーションを与えてくれる。利益に貪欲なところも海斗と相性がいい。今まで付き合ってきた女たちとは違う“価値”が、淳美にはある。畠山海斗は合理主義の男なのだ。彼にとって"ラ・ベラ・ヴィータ"は、回収効率の悪い不良債権でしかなかった。そしてそれは、畠山咲希という女にも当てはまる。だから彼は利を取って、向坂淳美を選んだ。淳美はようやく撮影を終えて、料理の前に座った。箸をとるよりも先にスマホをいじり、撮ったばかりの動画を入念にチェックする。「ラ・ベラ・ヴィータは知名度あるお店だし、そこに私が企画として入ったら、それだけでもすごい話題になると思うのよ、でも今の経営スタイルじゃダメ、1日5組限定なんて、採算取れないでしょ」「なるほど」「だから、私が考えるコンセプトはこう! “あの有名店の料理を誰でも手軽に”!」「悪くないな」海斗は淡々と箸を進める。淳美は、まだスマホを置かない。どこからか、鹿おどしの跳ねる甲高い音が響いた。食事を終えた海斗は、久しぶりに"家"に帰った。パーティ向けの礼服が必要だったのだ。ドアを開けると、なんの匂いもしない空間が、そこにあった。例えば料理を作ってこびりついた油煙の匂いだとか、浴室に蓄積する水垢の匂いだとか——そうした生活臭は、この家にはない。締め切ったままのカーテンを開
まさか、こんなに苦戦するとはーー咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。——それでもこの結果か。咲希はスマホを置いて立ち上がった。開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。最初に出勤してきたのは村上だった。彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。「先生、大丈夫ですか」この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。だが、彼らは若くて後ろ盾もない。せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」「カルパッチョですか?」「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」「刺身ですか、フレンチなのに」「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」「また……オーナーに怒られますよ」「そうね、怒られるでしょうね」村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。彼の手元は繊細ではないが誠実だ。ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。次に出勤してきたのはギャルソンの時下。彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。「白身魚ですか、となると白ですね」咲希は頷く。「甘口のものを中心に準
微かに冷蔵庫のモーター音が聞こえる。海斗は厨房の入り口にもたれたまま、不機嫌そうに腕を組んでいる。彼の靴先がコツコツと地面を叩く音が、その苛立ちを無言のうちに語っていた。咲希はレシピ帳から顔も上げずに答える。「考えてみたわ」床を叩いていた音がふいに止まる。咲希はさらに静かな声で続けた。「離婚には応じる」海斗の顔に喜色が浮かんだ。だが、その喜びが形になるよりも早く、咲希は顔を上げて強い眼差しを海斗に向けた。「だけど、この店は渡さない」海斗の表情が一気に落胆に変わる。「そんなことを、まだ言うのか」「慰謝料はこの店だけでいい、そうすれば離婚には応じる」「咲希、よく聞け……」「入らないで!」厨房の中へと足を踏み出す海斗を、咲希は声だけで押し留めた。「ここは関係者以外立ち入り禁止よ、話があるならそのままどうぞ」「俺は君の夫で、ここの出資者だが、それでも関係者じゃないというのか」咲希は鼻先で笑って答えない。今や彼女にとってこの男は、他人よりもよそよそしい存在だ。そして海斗にとっても、咲希はもはや尊重する必要のない相手であった。「君の手腕ではこの店の経営を維持することはできないだろう、たかが料理に、君はこだわりすぎなんだ」「それがあなたに何の関係があるというのかしら」「関係はあるだろう、出資した以上、利益は戻してもらわなきゃならない」「利益ね、あなたにとって大事なのは、それだけなのね」この店——ラ・ベラ・ヴィータの店舗自体の資産価値はさほどでもない。1日5組に限定して、原価を考えず高級食材をふんだんに使うスタイルだから、売り上げもほとんどない。それでも利益至上主義の海斗が、なぜこの店の所有権にこだわるのか。それは、この店の知名度が十分に価値あるものだからだ。「俺ならば、この店をもっと大きくすることができる」「大きくするつもりはないわ」「それだよ、そのこだわりがこの店を潰す、だから君にこの店は渡せない」咲希は黙ってレシピ帳を閉じ、立ち上がった。「仕込みがあるの、どうぞお帰りください」「咲希、あまり頑固だと、後悔することになるぞ」海斗は大袈裟に踵を返して立ち去る。遠ざかってゆくその足音を聴きながら、咲希は無意識のうちにコック服の襟元を指先でなぞった。そこには古い傷痕がある。首元を起点に、胸を通って脇腹まで
凶刃は私の体に傷を刻んだ。それは私の“美しい人生”をも切り裂いた。私に残されたのは、料理だけだった。照明は暖色系、黄色みを帯びた柔らかい光が店内を暖かく照らして明るい。テーブルには真っ白いクロスがかけられ、並ベラれた銀のカトラリーは丁寧に磨き上げられて曇り一つない。テーブルについているのは畠山海斗と、その愛人である向坂淳美、そして本日海斗が取引を持ちかけようとしている海道物産の社長、海道恒吉であった。本日のアミューズが並ベラれ、ワインが注がれる。海道はワイングラスを揺らしながら満足そうに言った。「ここが噂の“ラ・ベラ・ヴィータ”……いい店ですな」海斗がにっこりと笑う。それは営業用の胡散臭い笑顔ではあったのだけれど、海道は気にする風もなかった。「しかし、私は他の連中とは違いますよ、胃袋で商売に手心を加えるようなことはしない、どんな料理を出されても、契約なんかしませんよ」「ははは、その話は後で、まずは料理を楽しんでください」アミューズは小さなパンにアボカドとエビを乗せて軽く炙りをかけたもの。アボカドの優しい緑とエビの赤が美しい目にも美味しい一品だ。サクッと音を立ててそれを齧った海道は、軽く目を見開いた。「ほう、これは……」パンはトーストされてカリカリとした歯応えが楽しい。作り置きなどせず、食べる直前に組み上げたからこその歯応えだ。えびには少し強めの下味がつけられ、口中でアボカドと合わさった瞬間の味がきちんと計算されている。海道の口元が静かに綻ぶ。これを見た向坂淳美は、満足そうに微笑んだ。「いかがですか、いい店でしょ、うちの海斗はこの店の出資者だからいつでも予約が取れるんです、お気に召したなら、またご招待しますよ」まるで海斗の妻であるかのような態度だが、この場の誰もそれを咎めない。海斗自身が彼女のそうした振る舞いを普段から許容しているからであり、世間ではこの向坂淳美こそが彼の妻だと思われているのである。その頃、畠山海斗の本当の妻である畠山咲希は、この店の厨房にいた。「村上、オードブルを出してきてちょうだい、宮下はスープの仕上げをはじめて、時島、次のワインを用意して」二人の弟子とギャルソンに指示を出しながら、咲希は本日の“メインディッシュ”の鍋をかき混ぜている。弟子が恐る恐る首をすくめながら聞く。「あの、シェフ、本







